新星日響とともに~

新星日響とともに~

音楽人や支援者
楽団に深く関わった
多くの人達

指揮者、作曲家、そのほか理解者たち・・・・、新星日響が30年の間に大きく育って行ったのはもちろん楽員達自身の努力だけではなく、様々な人たちとの出会いがあったからである。 そこから刺激を受け多くのことを吸収しながら実績や経験を積み上げ、国内を代表するプロオーケストラへと発展する。 新星日響の創立時からの理念や熱意に共感し活動を共にした音楽人や支援者達は、楽団にとって恩人でありパートナーであり、そこで築かれた人脈は掛替えのない宝だった。

山田一雄

(指揮者)

言わずと知れた音楽界の重鎮である。新星日響の定期演奏会には、楽団創立3年目の1972年3月、文京公会堂で開催された第7回に早々と登場する。当時既に日本を代表する指揮者であった山田一雄氏のもとに、楽団が飛躍するためと意を決した楽員たちがお願いにいったところ若者の熱意にほだされ快諾、その後20年の間定期のみならず地方の音楽教室にまで指揮者として同行するなど新星日響と深い関りを持つ。この出来立てのオーケストラにとって山田氏の存在は重要な役割を果たす。氏との最初の定期演奏会のメインプログラムであったチャイコフスキー:交響曲第4番の終楽章では、全身をフルに使った音楽の真骨頂を楽団員に伝えた。当時平均年齢25歳程の経験不足のオーケストラに対し丁寧な指導を施したが、「第九」等演奏経験の多い曲目で楽団員が思わず集中力を欠くと本気で怒った。山田氏のエネルギッシュな指揮と新星日響の演奏は数々のドラマを生み出し、1990年の新星日響第1次ヨーロッパ・ツアーにも同行、現地の聴衆から熱狂的に迎えられた。1991年に逝去、その1年後の8月16日に新星日響は「山田一雄 炎の航跡 メモリアルコンサート」を開催しその功績を称える。新星日本交響楽団 永久名誉指揮者。

オンドレイ・レナルト

(指揮者)

楽団の歴史最後15年間、まさに”新星日響の顔”となったオンドレイ・レナルト氏が最初に定期演奏会に登場したのは1981年11月の第50回のことであった。曲目はドボルザーク:スタバト・マーテル、そしてウィーンに近いスロバキアの首都ブラチスラヴァを拠点に数々のシンフォニーやオペラの指揮で培われたレナルト氏の音楽の奥深さが、度々の定期への客演でオーケストラへ染みわたり、後の新星日響独特のサウンドを創っていった。新星日響2度の海外公演に同行、1990年の楽団創設以来初のヨーロッパ・ツアーでは、現地の聴衆にそのサウンドを遺憾なく発揮させ、続く1995年の「プラハの春音楽祭」を中心とした第2次ツアーでは、松下功:「飛天遊」、マーラー:交響曲第5番の熱演で聴衆の度肝を抜き感動の大きなうねりを巻き起こす。それはまさに「レナルト・新星日響」、指揮者がオーケストラの最大の力を引き出した最頂点だった。1986年に首席客演指揮者に就任、その後新星日響と密着した音楽活動を重ね、最終的内は「名誉指揮者・芸術顧問」の称号が与えられた。

佐藤功太郎

(指揮者)

新星日響の定期演奏会には1979年7月にケルビーニ:「レクイエム」で初登場。その後楽団との信頼関係を築きあげ、1982年から1987年まで新星日響の首席指揮者を務める。東京藝術大学でクラリネットを専攻しその後指揮科に移り渡辺暁雄氏に師事するという経歴を持つ佐藤氏は、指揮者としては二期会を中心としたオペラ界での活躍が多く、首席指揮者期間外でも、日生劇場での公演等、様々なオペラシーンで新星日響との共演を重ねた。1986年4月には、演奏会形式によるウェーバー:歌劇「魔弾の射手」を定期演奏会で上演(第90回)。佐藤氏のオペラへの深い造詣が存分に活かされ、その心に残る指揮ぶりは、後まで語り継がれるような名演であった。とにかくゴルフ好きで、その影響で新星日響の楽団員にゴルフ・ブームが到来する。氏と楽団員の間でのプレーやゴルフ談義が交わされるなど、新星日響とは公私ともども親密な関係だった。

星出豊

(指揮者)

チマローザ:歌劇「秘密の結婚」、プッチーニ:歌劇「妖精ヴィッリ」等の国内でのオペラ初演や水野修孝:歌劇「天守物語」や三木稔:歌劇「あだ」ほか数々の邦人作品の初演など、国内オペラ界に極めて貢献しているマエストロである。星出氏の得意とするオペラ分野での新星日響との共演は1971年に声専オペラ研究会(現昭和音楽大学)主催によるヴェルディ:歌劇「ナブッコ」が最初であった。その後1975年の入野義朗:歌劇「綾の鼓」(郵便貯金ホール/日本オペラ協会主催)、同年ビゼー:歌劇「ミラクル博士」(杉並公会堂/東京オペラ・プロデュース主催)で新星日響の指揮を務めた。これらを機に新星日響へのオペラ演奏依頼が増えてくる。それまでは創立して以来ほとんどオペラ公演の経験が乏しいオーケストラが、後々評価が高まったのは、まさしく星出氏から得られたオペラの音楽性やテクニックが糧となったからであり、氏の功績は大きかった。定期演奏会には1976年の第20回に登場、三木稔:破の曲とヴェルディ:レクイエムをプログラムに取り上げる。財団法人化した新星日響の理事にも名を連ねるなど、楽団にとって不可欠の存在だった。

ラインハルト・ペータース

(指揮者)

テレマンの出生地で知られるドイツ・マクデベルク出身のペータース氏は、ベルリン国立歌劇場でコレペティトゥーアを務めていたが、1951年から開催されたブザンソンの指揮者コンクールの最初の覇者となった(沼尻氏の優勝した丁度40年前)。新星日響の指揮者はみんなオペラへの関りが深いようである。ラインハルト・ペータース氏も同様、ミュンスター市立歌劇場の音楽監督やベルリン・ドイツ・オペラの首席指揮者を歴任、かの有名なグラインドボーン音楽祭では、1969年と1970年の2度にわたり、ロンドン・フィルの演奏でのモーツァルトのオペラを指揮している。日本では1960年代に東京交響楽団、NHK交響楽団で指揮、新星日響では1987年以来定期的に公演を重ね、1992年から客演常任指揮者に就任。
正当派ドイツ音楽でありながら軽やかさのある音楽づくりに定評がり、CD化もされた新星日響の定期演奏会(1991年第133回)でのベートーヴェンの交響曲第7番は圧巻であった。洒脱でユーモアを欠かさないその人柄は楽員からも多くのファンからも親しまれた。ピアノとヴァイオリンの神童と言われた腕を披露してもらうべく1994年に東京芸術劇場でモーツアトのヴァイオリン協奏曲4番、ピアノ協奏曲21番、とそれぞれを「弾きぶり」するという驚異的なコンサートを予定したが、その来日中に自転車に追突され重傷を負い脳挫傷で入院。公演はキャンセル、直後の二期会のドン・ジョバンニも予定されていただけに日本でのオペラデビューがかなわず残念であった。「弁済能力はないだろから」とアルバイトに急ぎ追突してしまった自転車の韓国人留学生に対しては事故扱いにはせずに何の不服も申し立てもしなかった。音楽する喜びに生き恬淡無欲の生きざまを示してくれた指揮者だった。
彼の数あるジョークから一つ。“When I was young, I had youth and beauty. Now only beauty” (若い頃は若さと美貌を兼ね備えていたんだけど、今は美貌だけなんだ)。

現田茂夫

(指揮者)

東京藝術大学の指揮科で佐藤功太郎氏に師事した現田茂夫氏は、在学中の1985年に安宅賞受賞など将来を嘱望される若手指揮者であった。その現田氏に早くから新星日響は注目、当初は音楽教室公演等で積極的に起用をしていたが、楽団員の評価が高まるにつれ1987年に新星日響指揮者に就任、そしていよいよ1988年4月に定期演奏会でのデビューを果たした。しかも曲目は大曲であるマーラー:交響曲第5番。師であり前年まで首席指揮者だった佐藤功太郎氏の温かい言葉が、当日プログラムに寄せられる。「現田君、デビューおめでとう!新星日響にお世話になってまだ1年と経っていないのに定期演奏会の指揮台に立ちしかもマーラーの第5番を振らせていただけるとは!君はよく運のよい人ですね!<中略>どうか君の持てる力を十二分に発揮して今夜のデビュー・コンサートを成功させて下さい。君なら絶対出来ると信じています。(さとうこうたろう/指揮者)」。この夜の成功は現田氏が新星日響に欠かせない指揮者陣の一員として、多くの新星ファンに認められた瞬間でもあった。

パスカル・ヴェロ

(指揮者)

1985年に新星日響は民音の指揮者コンクール(現:東京国際音楽コンクール<指揮>)のオーケストラを担当する。その時の第3位がフランス人の指揮者:パスカル・ヴェロ氏だった。結果では第3位であったが、日本人にはないエレガントな魅力を持つヴェロ氏の指揮ぶりは、演奏を担当した打楽器の加藤博文を始めほとんどの新星日響の楽団員からの評価が高かった。楽員たちの反応や本選でのヴェロ氏のパフォーマンスを強く受け止めた事務局の榑松三郎と家安勝利が早速新星日響での指揮を依頼しに動く。ヴェロ氏の受賞記念の地方公演にまで何度か足を運び粘り強く説得にあたった結果、やっと承諾を得た。新星日響定期演奏会でのデビューは1988年2月、サントリーホールでの第107回、メイン曲はフォーレ:レクイエム。リヨン生まれの若い指揮者と新しいコンサートホール(新星日響は正式に翌年から定期会場を同ホールへと移す)の組み合わせが、新星日響のフレッシュな時代の到来を思わせるようであった。この夜の演奏会の成功によりヴェロ氏とオーケストラの絆が生まれ、その後多くの演奏会に同氏が登場することになる。そして1993年に指揮者陣の一員として就任、以後東京フィルとの合併までこの関係は継続した。

沼尻竜典

(指揮者)

1990年の春、新星日響の第1次ヨーロッパ公演のツアー終了後、ベルリンで開催された打ち上げパーティーに、当時ベルリンに留学中の沼尻竜典氏が飛び入り参加していた。そこで山田一雄氏と談話などするが、よもやその4年後の新星日響第2次ヨーロッパ公演に自身が指揮者として同行するとは本人も夢にも思わなかったに違いない。新星日響のパーティーに参加した年のブザンソン国際指揮者コンクールで見事優勝を飾ると、帰国後新星日響はじめ数々の国内オーケストラの指揮で実績を積む。1993年4月27日の新星日響の定期デビュー(第153回)後、楽員の評価も高くすぐに正指揮者に就任したが、そのポジションを1998年まで務めることになる。1994年10月の定期(第166回)では、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番を自らの弾き振りし、聴衆はピアノ演奏についてもその卓越した才能を目の当たりにした。交響詩「連禱富士」など師である三善晃作品や、メシアン:「トゥランガリア交響曲」、グレツキ:「悲劇のシンフォニー」(日本初演)等の現代音楽をも積極的に取り上げ、沼尻氏が展開する多彩なプログラムには多くの音楽ファンが引きつけられた。

伊福部昭

(作曲家)

『ゴジラ』の映画音楽で有名な伊福部昭氏は、1914年、北海道の釧路で生まれ、その少年時代を帯広郊外の音更ですごした。アイヌの人々の踊りや歌に親しみ、また内地からの開拓者たちが歌う各地の民謡にもふれなどの音楽体験は、氏の作曲家としての個性を形成する重要な要素とも言える。札幌での学生時代にすでに作曲活動を始めた氏は、北大管弦楽団のコンサートマスターをつとめるかたわら、学外で早坂文雄らと共に新音楽連盟を結成して国際現代音楽祭を開くなど、当時の楽壇では考えられないようなスケールの大きい活動を行っていた。そして最初の管弦楽作品である「日本狂詩曲」(1936)は、パリでチェレプニン賞第1位となる。これが機縁で、それまで独学だった作曲の勉強を来日したチェレプニンについて学んだ伊福部昭氏は、戦前戦後を通して多くの優れた作品を書き、日本を代表する作曲家として活躍するようになった。新星日響とは、1979年の創立10周年委嘱作品「マリンバとオーケストラのためのラウダ・コンチェルタータ」から関係が深まる。当時の運営委員長の池田鐡が伊福部氏に注目しアプローチをした結果、マリンバの第一人者の安倍圭子氏をソリストにしたこの名曲が生まれることになった。その後もコンサートで「日本狂詩曲」などの氏の代表作をしばしば取り上げるほか、財団設立時には理事に就任してもらうなど新星日響と伊福部昭氏の関係は深まっていき、1990年の第一次ヨーロッパ公演では、「ラウダ・コンチェルタータ」をプログラムのラインナップとし、山田一雄氏の指揮と安倍圭子氏のマリンバ演奏がヨーロッパの聴衆を圧倒した。

松下功

(作曲家)

作曲家の松下功氏は、東京藝術大学作曲科に入学した後1979年に同大学院を修了、DAAD(ドイツ学術交流会)給費生としてベルリン芸術大学に留学し、作曲家尹伊桑の下で研鑽を積んだ。1984年に氏の作品《時の糸》が、旧西ドイツメンヒュングラアードバッハ市第3回アンサンブル国際作曲家コンクール第1位受賞するなど、その後精力的に作曲活動を展開する。新星日響とは、1989年の創立20周年記念行事として《我が隣人たちの音楽》(その後シリーズ化)の開催時に、作曲家としてアジアとの広いネットワークや見識をもつ氏に、同企画の構成陣に加わってもらったのが始まりである。同シリーズVol.3(1991年)では、松下氏自身の作品「ピアノと管弦楽のための《時の糸》Ⅱ」が演奏されている。その後松下氏と新星日響は、アジアの音楽だけではなく「狂言オペラ」に代表される他ジャンルとの融合させた企画など、多彩な活動を繰り広げた。1995年の第2次ヨーロッパ公演に邦人曲として演奏された「和太鼓協奏曲≪飛天遊≫」は、氏がベルリンフィル・シャルーンアンサンブルのために書き下ろした作品を新星日響のためにオーケストラ版にトランスクリプションした作品である。この曲は和太鼓奏者林英哲氏のパフォーマンスともに、ヨーロッパの多くの聴衆に熱狂的に受け入れられ、その後も同曲は、国内はもとより25,000人を前にしてケント・ナガノ指揮ベルリン・フィルで演奏(於ベルリン・フィルヴァルトビューネ野外コンサート2000)が全世界に生中継されるなど、松下氏と新星日響が生んだ代表的な作品となった。

ハンス・レーヴライン

(指揮者)

ドレスデン国立歌劇場、ベルリン・コミッシュ・オーパー、ベルリン国立歌劇場でキャリアを積んだハンス・レーヴライン氏はオペラのスペシャリストとして藤原歌劇団の招聘で来日する。そして同歌劇団との関係が深い指揮者:星出豊氏の推薦で新星日響の演奏会に登場することになった。レーヴライン氏の定期演奏会初登場は1977年7月の東京文化会館で開催された第25回、モーツァルト:レクイエムの他ブラームス:交響曲第2番の指揮で、ドイツ音楽の神髄を楽員や聴衆へ伝道する。氏の音楽への深い造詣に感銘を受けた楽団は、その後1982年まで計7回の定期演奏会を彼の指揮で開催する。この間、カラヤンと同年代を共有したレーヴライン氏の豊かな感性は、楽員たちに大きな影響を与えた。また人間性も豊かで「私にとって一番心に残ったのは´80年9月定期演奏会でのブラームス/交響曲第4番でした。そのリハーサルがはじまる前に、その年の4月に池田鐡氏を亡くした池田敏美さんを固く抱きしめ、涙ながらに振り始めたブラームスの冒頭、あの音に皆の心が一つになった。以降、いつもこの曲を聴く時、あの時を思い起こしますが、あの時のあの音楽に出会うことは未だにありません。」、と楽団長の榑松は回想する。

小松長生

(指揮者)

アメリカを拠点にする当時若手指揮者の小松長生氏は、東大出の指揮者として世間の注目を浴びた。1980年代に単身渡米しイーストマン音楽院大学指揮科を卒業、日本の音楽大学のコネやネットワークも無く、独力でアメリカの指揮界に地歩を固めいった行動力は、当今すべてお膳立てされた中で留学する若者からは想像もできないところだろう。
 バッファロー管エクソン派遣指揮者、ボルティモア響アソシエートとしてデビッド・ジンマンのもとでアメリカの指揮者の音楽づくりを身につけた後、カナダ・トロント近郊のキッチナー・ウォータルー交響楽団及びカナダ室内アンサンブル音楽監督として北米で「チョーセイ」の名前を確立する。1994年に新星日響の事務局次長の家安勝利が、文化庁の在外派遣研修でキッチナー・ウォータルー交響楽団を訪問、日本では考えられない小松氏の音楽監督としての役割を目の当たりにする。新星日響では1983年以来度々氏を招聘、2000年には正指揮者に就任した。
生来の性格でもありアメリカ仕込みの積極的な姿勢が日本のオーケストラに新たな活力を吹き込んだ。明晰な知性と活力ある曲づくり、「だらだらしない」テンポの良いリハーサルが楽員に刺激を与えた。アメリカの指揮者はオーケストラの音楽的責任だけにとどまらず財政的責任も併せもつ。これが日本のオーケストラとの大きな違いだ。楽団の先頭に立って積極的に個人、企業へ寄付を働きかけるのももう一つの仕事だ。ここでも「チョーセイ」は社交的な顔で支援者を集め新星日響のファンドレージング活動に貢献した。常に先駆的な指揮者として国内外のオーケストラ界を刺激し続けている。

村松泰

(楽団医)

国内のオーケストラには珍しい、楽団医というポジションで新星日響を支えてきた医師。自ら名古屋市立大学医学部音楽学科卒というほどの音楽好きが高じ、山田一雄氏の口添えでとうとう1985年にプロ・オーケストラの指揮をするという長年の夢を叶える(新星日本交響楽団 蒲郡特別演奏会)。以下は、山田氏の当演奏会に寄せたメッセージである。『今宵登場の村松泰氏のミュージカル・ヒストリーに目を通すと、誰もがハテナと考え直すことだろう。「音楽」とは天から与えられた誰もがやっていい筈のものだったのだ……と。職業音楽家だけの独占物が「音楽」なんて途方もないこと。人間の呼吸はもともと縦横に自由なのだから……と。ルネッサンス時代を考えてみようか。ダビンチは絵画、彫刻、医学、天文おまけに音楽も、ミケランジェロだって詩歌、医学etc、ルソーだって大思想家のくせしてオペラを何曲も残しているというフィーバーぶり、村松センセイは病院でオペラチオーン(手術)への名技を施しながらの『指揮ルネッサンス』へのまぶしいほどの気概……。さてその村松センセイ。その容貌は美しくソフトで貴公子然として居ながら、その深い眼の光には行動への確信がひたひたと隠されていて、しかも落付きがある。そんな点では光源氏の君と同じだ。ルネッサンス時代のトータル人間としての魅力!』
そのコンサート以来、村松氏は愛知県在住ながら、新星日響の一員として楽団のサポートに尽力した。1995年の新星日響第2次ヨーロッパ公演には、薬など医療品すべてを持参して同行して、「プラハの春音楽祭」2公演、ブライトン国際音楽祭、ブラチスラバ、ライプツィヒ、バルセロナ、ベルリン等世界の檜舞台に立つ楽員たちの健康面、」精神面を楽団医として温かく見守り、公演を大成功に導く。