新星日響を支えた3人の理事長たち
1980年5月に発表された文化庁の助成団体の条件見直しを契機に、楽団が対策へと総力を結集した結果、1981年3月27日、文部大臣より新星日響に対し正式に財団法人としての認可が下りた。
それに先立つ3月17日に、新星日響の財団法人設立発起人会が開かれ、役員が選出される。そこで新星日響の初代理事長に就任したのが劇作家の飯沢匡氏であった。
後の事務局長となった藤井賢吉の推薦ですでに財団法人化の為の呼びかけ人となっていた飯沢氏だったが、文化面での実績や深い知識、幅広い人脈を持つなど、新星日響の初代理事長に最も相応しい人物だった。
この著名な劇作家の理事長就任で、その後の新星日響の活動の幅が広がることになる。名作の音楽物語「窓際のトットちゃん」やロングシリーズとなった「ハートフルコンサート」は飯沢氏がいたから生まれた作品といっても過言ではない。第1次ヨーロッパ公演への同行や、
氏の人柄や経験を頼って執行部が度々相談するなど、新星日響にとっては心から頼れる存在であったが、1994年に逝去、14年間の理事長としての務めを終えた。
飯沢氏の逝去の後、暫く理事長職は不在のままであったが1997年の1月、板橋産業連合会の会長でトックベアリング株式会社会長の八代秀蔵氏が2代目理事長に就任する。
入場料収入や寄附、公的な助成だけに頼っていたこの頃の芸術団体にとって経営方針を考えていく過渡期でもあった。企業経験者の助言や、ファンドレイジングについて考えていく必要があり、新星日響も運営委員会から企業経験者が運営に参加する経営委員会へと転換を図る。
そうした中、国内で初めてメトロノームを製造するなど音楽と非常に関わりの深い企業人、八代氏を新星日響の理事長に迎えることになった。八代氏の理事長就任による効果は絶大で、音楽の事しか知らない楽団の執行部に経営面について説くだけではなく、
自らも多額の企業献金を集める。しかし、わずか4か月の期間、同年の5月に病気の為帰らぬ人となってしまう。
またしても理事長を失ってしまった新星日響を救ったのが、初代理事長飯澤匡の盟友でもあった女優の黒柳徹子だった。黒柳は、すでに財団法人化した時に理事に就任していたが、
コンサートの出演や飯沢氏とともに第1次ヨーロッパ公演への同行など、新星日響の楽員にとっても身近な存在である。八代氏の後を受け1997年の7月に新星日響第3第理事長に就任した。前の2人の理事長と異なり、
黒柳氏は自ら表舞台に立ち新星日響の活動をサポートする。楽団が黒柳氏に期待していた通りの立場で、その後合併するまで理事長職を務めた。
こうして、「文化人としての飯沢匡氏」、「企業経営者の八代秀蔵氏」、「発信力の高い黒柳徹子氏」と、それぞれの個性を活かした新星日響の3人の理事長が新星日響を支えた。