初代理事長 飯沢匡氏

初代理事長 飯沢匡氏

初代理事長
飯沢匡氏

 1981年3月、新星日響は多くの人々の寄付や協力受け、自主運営を基盤とした財団法人化を達成した。そして初代理事長に劇作家の飯沢匡氏を迎える。飯沢は脚本や演出で数々の賞を受賞していたが、東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の全身)の初代校長を務めた伊沢修二の甥にもあたり、音楽分野について深い理解を示した。飯沢氏の就任によって氏の芸術文化分野での実績や経験、ネットワークが、新星日響の要所要所の活動や判断において活かされてくる。「窓際のトットちゃん」の音楽物語化や「ハートフル・コンサート」等、新星日響の代名詞ともいわれるコンサートは飯沢の助言や根回し無くしては決して誕生しなかったであろう。まだ若い事務局や楽団員を包み込むような人柄は、父親のように新星日響の活動を支えていった。1990年5月~6月に実施した第1次ヨーロッパ公演にドレスデンまで盟友の黒柳徹子氏とともにわざわざ現地を訪問、初めての海外公演で不安だったオーケストラのメンバーを勇気づけ、楽団の資金を集めるための「賛助会入会」にも温かいメッセージを寄せた。

下記は「賛助会入会」のための飯沢氏のよる挨拶文である。

財団法人 新星日本交響楽団
賛助会ご入会のお願い

世界へはばたく新星日響へ!
 最近来日する海外の芸術家の数は、驚くべきものがあります。そこまで日本の経済生活の水準が上がったと喜ぶべきことでしょうが、ただ、それだけを喜んでいられぬ焦燥を感じずには居られません。
 それは、日本の芸術家の経済的水準を高め、何とかして日本の芸術を世界的水準にまで引揚げたいのが、私たちの切なる願望だからです。
 諸外国の事情を調べますと音楽などは、貴族や王族の庇護が強力であった歴史を発見します。
 日本に西洋音楽が導入されたのは、明治の初年で私の叔父の伊沢修二は、そのために熱心に努力しました。その甥の私が、現在、この新星日響の理事長を委嘱されているのは、非常に運命的とさえ思っています。
 新星日響は、1989年の楽団創立20周年を契機として、定期演奏会の会場を赤坂のサントリーホールへ移し、また、1990年の5月には初のヨーロッパ公演を行い大成功をおさめるなど積極的な活動を展開して居ります。そして1991年からは、楽団事務所の所在地池袋の東京芸術劇場を本拠地としてサントリーホールに加えて定期演奏会をはじめ、多彩なコンサートを行っており、地域に密着し、街の人々の生活に根ざしたオーケストラ活動を目ざして居ります。
 このような、私どもの21世紀へ向けて真の意味での国民の財産をめざしたオーケストラの活動に何とぞ深いご理解と御支持を賜ることを楽団員一同心から願って居ります。
 是非とも皆さまの惜しみないお力添えを、ここにお願いするものであります。

財団法人 新星日本交響楽団
理事長 伊沢 紀(飯沢匡)

飯沢匡略年譜

1909年 和歌山県知事であった父伊沢多喜男の次男として生まれる。
1930年 文化学院美術科の入学。
1933年 文化学院卒業。朝日新聞社入社。
1952年 8月「アサヒグラフ」で原爆被害写真を初公開する。この前後より小説を執筆。
1954年 4月 朝日新聞社退社。同月より「ヤン坊ニン坊トン坊」をNHKより連続放送。
1956年 4月より「ブーフーウー」を「婦人公論」に連載。
1964年 12月「飯沢匡狂言集」(未来社)を刊行。
1970年 10月『マカロニ金融』で昭和45年度芸術祭奨励賞を受賞。
1974年 9月 いわさきちひろ絵本美術館開館と同時に館長に就任。
1977年 2月 青年劇場で『多すぎた札束』初演、「武器としての笑い」(岩波新書)を刊行。
1978年 12月『夜の笑い』で毎日芸術賞、紀伊國屋演劇賞、東京労演賞を受賞。
1980年 4月『夜の笑い』でフィレンツェの国際演劇祭に招聘される。
1981年 3月 財団法人新星日本交響楽団理事長就任。
      9月「多すぎた札束」(飯沢匡政治喜劇三部作・新日本出版社)を刊行。
1982年 3月『二階の女』(獅子文六原作)博品館劇場で初演、演出。
      4月 音楽物語「窓ぎわのトットちゃん」(黒柳徹子・飯沢匡作・構成/小森昭宏・作曲)を新星日響で初演。
1983年 日本芸術院会員に選出さる。
1988年 4月 『いばらの城のおひめ様』(グリム兄弟原作)脚色・音楽物語として新星日響で上演。
1990年 6月 新星日響ヨーロッパ公演に同行。ベルリン、ドレスデン、ライプツィヒを取材。
1992年 4月 『喜劇キュリー夫人』(ジャン・ノエル・ファンウィック作/岡田正子訳)を青年劇場で演出。
1993年 5月「飯沢匡喜劇全集」全6巻(未来社)を刊行。
1994年 10月9日 永眠。享年85歳。

飯沢匡初代理事長が教えて下さったこと

(財)新星日本交響楽団 専務理事 槫松三郎

 飯沢匡先生には、1981年3月に新星日本交響楽団が財団法人の認可を受けた時、初代の理事長に就任していただき、以来、定期演奏会など主要なコンサート、そして1990年の初のヨーロッパ公演にも同行していただきました。また、楽団の事業の報告や相談に何度もご自宅にお伺いし、そのたびに、先生の物事を見る目、時代を見る視点の確かさ、そして、自由で豊かな発想力にはいつも感心されられました。
 ある時、芝居の台本の〆切が迫っている時期に、宿泊先の赤坂東急ホテルを訪問した時に、「ところで、先生、もうほとんど書き上げられたのですね。」と私がお伺いすると、「いいえ、まだまだ一行も書いていません。」と先生。「エッ、それは大変ですね・・・」と私が言うと、先生は、「書くのは簡単です。それまでに頭の中で、役者の動き、道具の位置など、頭の中で考えて考えて全部作り上げ、全部出来上がったらあとはただ一気に書くだけですから。」さすが頭のつくりが、私などと全然違うなと、またまた感心した次第です。
 1982年に獅子文六原作、飯沢匡演出の「二階の女」を見せていただいた時の印象は、とても強烈なものでした。特に、ラストシーンは、その怖さ、恐ろしさに鳥肌が立ち、ひたひたと迫ってくる恐ろしい時代をあのような観る人に伝えるその手法、恐ろしい時代を見据えて、一歩も引かない力強さに大変感動し、涙が出ました。
 新星日響が飯沢先生にご相談をし、スタートした企画は今日もずっと継続して行っております。その第一には音楽物語「窓ぎわのトットちゃん」であり、黒柳徹子さん(現理事長)のお話とオーケストラの演奏で平和を願い、戦争を風化させないために毎年8月15日にサントリーホールで行っている「ハートフル・コンサート」です。今年10年を迎えました。次には、アジアの国々のオーケストラ、室内音楽作品を紹介する「我が隣人たちの音楽」です。「アジアの伝統・アジアの現代」も開始から10年を経て、これまでに100曲以上のアジアの作品を日本に紹介する大変ユニークで貴重なコンサートとなっております。第三には、「子供達に最高のものを!」と常に新しい企画を工夫している「ファミリーコンサート」もずっと継続し公演しております。飯沢先生のお力をお借りした企画は、新星日響の貴重な財産となっております。
 現代、日本は、教育・環境・政治・経済など多くの問題を抱えております。私達が、このような大事なときに何をしたのかが、後の時代に問われるほどの歴史の大きな転換点でもあると思います。新星日響は黒柳理事長とともに、飯沢先生から学んだことをオーケストラの活動としてしっかりと実践し、この時代に必要な仕事を力強く推進していきたいと、考えております。