佐々木真二

佐々木真二
(ステージマネージャー〚在籍1987~1997〛)

“軽い気持ちで新星日響でのアルバイトを始めたのは、1987年の秋、ステージマネージャーのアシスタントを探している、ということでファゴット奏者の菅原恵子さんから「佐々木やってみない?」と声をかけられたのが切っ掛けだった。「佐々木だったら向いていると思うんだよねぇ」と言われ「じゃあ、試しに」と煽てに乗ったのはいいが、無論正式に勤めるつもりは無かった。その後当時のステージマネージャー 今井慎太郎さんから連絡があり〇〇日の夜9時に荻窪の光明院(当時の練習場)に来るようにとのこと、「面接だろうけどそれにしても夜9時とは」、と訝しがりながらいよいよ当日指定場所に行くと、そこには今井さんが一人いるだけ・・・。「君が佐々木君か、じゃあ早速トラックに乗って」と促されるまま、停車してあった楽器車の4tロングトラックの助手席に乗り込んだ。すると今井さんの運転のもと環状八号線の内回りを走り出す。世間話をしながら数十分過ぎると、いきなり路肩に停車。「さあ、運転代って!」と今井さんから衝撃の言葉が発せられた。それはまさかの展開だった。当時4tロングトラックは普通免許で運転できる最大規模の車両だが、とても乗用車と同じ免許で乗ることができるとは思えないぐらい大きい。肝を冷やしながらその数十分今井さんの助言のもと、環八を恐る恐る走行した。そしてその後もこのトラック運転のトレーニングが1週間ぐらい続く・・・。”
これが新星日響での初体験でした。圧しに弱い私は、楽団の事情で翌年4月から今井さんに替わり正式なステージマネージャーとして勤務することになりました。何も知らない新米ステージマネージャーが、いろいろなホールに行くたびに個性豊かな海千山千の舞台スタッフさん達に囲まれ揉まれ、心細い中年間200を超える公演を進行させなければならない羽目に陥ったのです。それはともかく当時はとにかく辞めたいとか思う余裕も無いぐらい必死でした。公演数の多さだけではなく、オーケストラが2つ、酷いときには3つに分裂し、同日に別施設で演奏や練習することもあります。本番会場はもちろん練習会場もバラバラで、光明院観音ホール、労音会館、高島平、星稜会館、芸術劇場リハ室、オーチャードホールリハ室など様々、会場によっては重いティンパニーを階段で何階も上の部屋に運ばなければならず・・・。ほか楽器の手配、会場打ち合わせ、本番の進行制作などやることは多く、公演自体もオーソドックスなオーケストラの公演だけではなく、オペラやバレエ、イベント出演、音楽鑑賞教室、スタジオ録音、色物(企画コンサート)など、多岐にわたっており、非常に“こき使われた”という思いでいっぱいでした。
とここまでは愚痴を並べてしまいましたが、その10年間の新星日響生活は、後の私にとって大きな財産になったのです。97年に神奈川で初めての大型コンサートホールの設立準備のために転職した私は、その後横浜みなとみらいホールで音楽事業の企画制作をすることになりました。当初はホールのことに詳しいところを請われたのですが、ステージマネージャー時代に培った経験や知識、ネットワークを鑑みて、当時館長の渡壁煇氏がいくつかの企画を私に任せてくれたのです。そして横浜みなとみらいホールのプロデューサーとして本当に多くの企画を作ってきました。それは全て新星日響時代の礎があったから出来たことなのです。新星日響のオケマネとして多くのオペラやバレエ公演に関り、ウラのウラを見ながら仕事をしてきた蓄積が、その後、池辺晋一朗氏に「前代未聞だ」と言わしめた、ハノイのオペラハウスで日越混在キャスト・スタッフによる新作オペラの上演を企画し成功させるまでに至ったのです。
ひょんなことから今回新星日響30年サイトの編集をしていますが、改めてその活動内容は凄まじいと感じました。あの時代に先を見据えた事業を積極的に展開している、これは榑松さんの使命感の強さと行動力の賜物だな、と。公共施設の音楽プロデューサーの立場からすると、もうすこし俯瞰し戦略的にアプローチした事業実施でも良いのでは、とも思いましたが、その実行力は今の私の後輩たちに見習ってもらいたいほどです。
今振り返ると、ただ必死だった新星日響時代が知らず知らずのうちに現在の自分を育ててくれていました。一緒に過ごしたスタッフ仲間たち、早くに逝ってしまった早坂と蛭海、そしてどうしているかな、相沢、ナベ、臼井、彼らとの思い出は永遠の宝物です。

              佐々木 真二≪新星日本交響楽団野球部 4番 サード≫