運営委員長 池田鐵を失う

運営委員長 池田鐵を失う

突然の出来事

発足してから11年目の1980年、新星日本交響楽団の活動は年々公演数が増え活動内容も幅広くなり順風満帆のように思われたが、 突如衝撃的な出来事が襲った。創設当時から新星日響の活動を牽引してきた運営委員長の池田鐵を交通事故で失う、という不慮の事態に見舞われる。
池田鐵は東京交響楽団のヴァイオリン奏者の経験を活かし、主力メンバーとして同じくヴァイオリン奏者の妻、敏美と25歳で新星日響創立に参加。 東京交響楽団に在籍しながらも、平均年齢23.5歳というほとんどが音大を卒業したばかりの若者達に、新楽団の目指す活動理念を提起していったが、 楽団運営に専念するために1970年3月に東響を退団した。そして1971年に第二代の運営委員長に選出されると、その後新星日響の基盤をつくるため奔走する。
池田のリーダーシップのもと楽団員による自主運営の結果、創立年に1回しか開催出来なかった定期演奏会は10年後の1979年には7回を数えるほどまでになり、 その間他楽団では演奏機会の少なかった邦人作品も24作品を取り上げていった。また足立区民コンサートを始めとする地域コンサートを拡大し、聴衆と深く結びつく活動を推し進め、当初年間11公演だった公演活動は10年後には128公演に、それに伴い事業収入も182万円から1億5300万円へと拡大する。これにより、楽団員の生活基盤が築かれ更には聴衆を大幅に取り込むことになった。そしてその原動は「素晴らしいオーケストラを創りたい」という池田の断固たる信念と行動力であった。
そのような矢先の1980年4月19日足立区の自宅近くの交差点で、自転車で走行中の池田鐵は左折のダンプカーに巻き込まれ、36歳の若さで命を失う。
残された家族にとって非情な出来事であったが、楽団にとってもまた未来を牽引するはずだった掛替えのない人物が逝ってしまった。

池田鐡 音楽葬

池田が他界して1か月後の5月19日に「音楽葬」が労音会館で行われ、指揮者、ソリストを始めとする数多くの音楽家や関係者が弔問に訪れた。

葬儀委員長 山田 一雄氏 挨拶
本日は、新星日本交響楽団の(元)運営委員長の池田鐡君の音楽葬にたりまして、皆さま多数ご来会下さいましてありがとうございました。

中略

「本来、オーケストラというものは、独立経営は非常に困難なものであります。特に、そのころの日本の現状では、まるで一見無謀であったと思いますけれども、 若い彼らは、安心して演奏に打ち込める体制を作りたい、そして、新たな聴衆を掘りおこし、開拓し、その良い聴衆に支えられてやりがいのある演奏をしたい、 創造活動をしてみたい、それは音楽のみならず人間として、一日一日生きがいを持てるし、充実感を持てる。こういったこと、 これらを一体のものとして基盤を強化してみようということで(わずか大学を卒業して5年後に)新星日本交響楽団を彼らは設立したわけであります。

中略

このような誕生と発生でありますから、当然、課題はすごく多いわけであります。それにもかかわらず、いま考えてみると、彼が新星日本交響楽団にまいた種、業績というのは、 実に数知れず、しかも、着実にそれが実りつつあるということは、今さらながら私は驚くのであります。

後略

池田弦・純君への
育英基金のよびかけ

「舵取り」を失った新星日響にとって大きな痛手ではあったが、それよりも楽団員たちは、 2人の小さな子供を抱えたまま残された敏美夫人を思いやることで頭がいっぱいだった。直ぐに支援のために、合唱団や賛助会、そして市民へ「育英基金」の呼びかけをする。

前略
音楽家、音楽愛好者、市民のみなさん
文字通り、身を賭して活動してきた彼の御霊にこたえ、安らかな眠りを願う意味でも、残された遺族である幼き兄弟弦君、純君が立派に成長できますよう、 そして敏美夫人が生活の心配に追われることなく演奏活動に専念できますよう「池田弦君、純君への育英基金の会」の趣旨に賛同いただき、皆様へのご協力を心からお願いいたします。

この楽団の呼びかけによって、沢山の方々から多額の育英基金が募金された。楽団員達にとって創設時から苦楽を共にしてきた敏美夫人は、単なる同僚では無くまさに家族そのものだった。

池田鐡の歩いた道

  • 1944年 2月
  • 中国・北京市にて父 池田米生、母智子の長男として生まれる
  • 1946年 3月
  • 母子のみにて山口県仙崎港に引き揚げ、4月父帰還、以来、呉に住む
  • 1950年(6歳) 4月
  • 呉市立吾妻小学校入学。この頃ヴァイオリンを始める
  • 1962年(18歳) 4月
  • 武蔵野音楽大学短期学部ヴァイオリン科入学
  • 1964年(20歳) 3月
  • 武蔵野音楽大学短期学部ヴァイオリン科入学
  • 1964年(20歳) 3月
  • 武蔵野音楽大学卒業 ABC交響楽団入団
  • 1967年(23歳) 4月
  • 宮串敏美と結婚 ABC交響楽団消滅 東京交響楽団入団
  • 1968年(24歳) 5月
  • 長男 弦誕生 
  • 1969年(25歳) 6月26日
  • 新星日本交響楽団創立に夫妻で参加
  • 1969年(25歳) 12月
  • オペラ「沖縄」初演(指揮 井上頼豊)に楽団として参加
  • 1970年(26歳) 3月
  • 東京交響楽団退団 新星日響に専念
  • 1971年(27歳) 4月
  • 2代目運営委員長に就任
    以来、1980年4月19日亡くなるまで9年間その任にあたる
  • 1972年(28歳) 3月
  • オペラ「沖縄」第2次全国公演(指揮 山田一雄、外山雄三他 30数ステージ)
  • 1974年(30歳) 4月3日
  • 創立5周年記念定期演奏会(指揮 外山雄三)
    初めて合唱団を組織(合唱指揮郡司博)

    プロコフィエフ:カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」
    この定期演奏会での演奏を最後にヴァイオリンをやめ、楽団の運営、渉外活動に専念する
  • 1977年(33歳) 3月
  • 文化庁より定期公演に対する助成金が給付される(500万円)
  • 1977年(33歳) 4月
  • NHKテレビ「音楽の広場」初出演(指揮 山田一雄)
  • 1977年(33歳) 5月
  • 二男 純誕生
  • 1978年(34歳) 1月
  • 都民フェスティバル初出演(日本プロ合唱団連合との合同公演)
  • 1979年(35歳) 3月
  • 文化庁より助成金(1000万円)
  • 1979年(35歳) 6月
  • 創立10周年記念パーティー(赤坂プリンスホテル)
  • 1979年(35歳) 7月
  • 初めてレニングラードバレエ団との共演が実現
  • 1979年(35歳) 9月
  • 「新星日響十年史」発刊
  • 1980年(36歳) 2月
  • 九州、四国、呉の親子劇場オーケストラ例会2月20日~3月5日までの旅公演
  • 1980年(36歳) 3月
  • 文化庁より助成金(1100万円)
  • 1980年(36歳) 4月19日
  • 愛用の自転車で走行中、左折ダンプカーによる事故で永眠
  • 1980年(36歳) 5月13日
  • 第40回定期演奏会(指揮 山田一雄)
    冒頭にモーツァルト:レクイエムより「ラクリモーザ」が演奏され、池田鐡追悼公演となる