音楽鑑賞教室
事務所、スタッフ、資金の準備の無いまま演奏者の情熱のみで創立された新星日響は、各団員の身近な人々や理解者からの支援が少しずつ広がるとともに、演奏活動の場も増えてくる。
そうした中、創立の2年後の1971年6月7日に杉並公会堂で、新星日響初めての音楽教室である東海大学附属高校の公演が、三石精一の指揮で開催された。
以後、新星日響は“体育館をコンサートホールへ”を合言葉として、聴く子供達へ真摯に向き合い演奏するとともに、楽員同志が演奏力量を高めあう場として捉え演奏を重ねていった。
こうした取組みは音楽教室を行っている学校の先生方にも伝わるにつれ次第に公演の場が広がり、‘72年に年間20公演ほどだったものが東京の足立区、長野県下、
新潟県下まで広がり‘76年には80公演、‘78年には100を越える公演数となった。それは楽団員の収入を確保すると共に事務局運営の支えになる。
新星日響の音楽教室で大きな原動力となったのは、楽団創立当初運営委員長をつとめたVa奏者の赤堀文雄であった。
赤堀は楽団発足のかなり前から演奏だけではなく編曲活動をしており、音楽教室で演奏するためには多くの赤堀アレンジ曲が生まれることになる。
楽団の奏者やセクションの力を充分知り尽くしていた赤堀ならではのアレンジは、オケメンバーは無論のこと子ども達の心によく響いた。
加えて公演を重ねるごとに軽妙になっていくロンボーン奏者の村田芳彦の司会も効果的で、音楽教室で初めてオーケストラを楽しみながら聴くことができるよう子ども達を
緊張から解きほぐしていった。
こうした音楽鑑賞教室は、高山久代氏の主催する「東京音楽鑑賞協会」が新潟県、長野県の全域をシェアしており、そこから依頼されている新星日響も両県の仕事が非常に多くなる。
同一地域で2週間連続して公演する時などは、日曜日に先生と楽員が校庭でドッジボールをしたり、先生の案内で海辺に魚釣りに出かけ、浜でバーベキューを楽しんだりするなど、
楽団と先生方との交流も生まれた。初めて聴くオーケストラの演奏や楽器の音が、子ども達の感性を豊かにしていく様子を、
楽団長でありながら地方での音楽鑑賞教室に同行した榑松三郎が当時の様子を語った。
「長野県上田市では障がい児の学級のために金管五重奏をボランティアで演奏しました。演奏中に、後ろにいた6年生くらいの男の子が立ち上がり、
ピョンピョンと飛び跳ねながら前の奏者の方へ行くではありませんか。後方にいた私は止めようか、どうしようと思っていると、その子は前に到着すると、
左に曲がりながら自席に戻りました。演奏終了後、先生に伺うと『あの子があんな風に喜びを表したのは初めてです。本当に嬉しかったんですネ。』と先生も
とてもうれしそうに話してくれました。音楽の力ってスゴイと思いました。
また、ある時、たしか小諸でしたが、だいぶ荒れ気味の中学校で先生が私に『演奏が始まる前に注意します。』と言うので、私は『注意はしないでください。』と言いました。
それは『音楽の力で彼らを聴きこませよう』と思ったからです。演奏が始まる直前には、前の方にいた生徒たちは足をわざとオケ側に突き出し反抗的な態度(振る舞い)。
でも、演奏が少し進むとその足がひとり、ふたりと次第にふつうの姿に戻り、しばらくすると全員がオーケストラの音楽に心を寄せ聴き入って最後には大拍手をしていました。
公演終了後、担当の先生が私に駆け寄ってきて『皆さんは私達が1年かかってやっていることを今日一日でやってくださいました。本当にありがとうございます。』と
感激して言ってくださいました。
本当に心を込めて懸命にやれば子ども達に音楽の素晴しさは伝わるものだと思いました。
もう一つの例は東京都新宿区の中学校の学校公演のアンケートに書かれた言葉です。
『チェロを弾く人の頬に伝わる汗が宝石のように見えました。』これも子どもの心に見えた感動です。私たち演奏団体、演奏家はこうした体験を積み重ねて磨かれていくのだと思いました。
演奏者だけが一方的にするものではなく、聴く人たちによって相互に磨かれてきました。」
音楽鑑賞教室では若手指揮者だけではなく、指揮者界の大御所である山田一雄をはじめ、佐藤功太郎、現田茂夫等、当時活躍中の指揮者陣に、
赤堀文雄も加わり多くの演奏会で指揮をした。
1995年頃、東京都教育委員会、各地区教育委員会、都響、東フィル、東響、新星日響、新日フィルの担当者が東京文化会館の大会議室に集まり都内での「音楽鑑賞教室」に
ついての会議が行われたが、音楽鑑賞教室の公演数は新星日響評価が最も多く、評価も高かった。地方、首都圏問わず、新星日響の音楽鑑賞教室は、各地で信頼され依頼が多かった。
長野での音楽教室
新星日響が活動を始めてから、音楽教室の仕事は団の運営面でも財政面でも重要な位置を占めていました。私たちはたくさんの学校公演をしてきました。地方では長野県、新潟県の仕事が多くありました。その中でも私の出身地、長野県での音楽教室について思い出をたどりながら書いてみようと思います。
長野県では北信地方での仕事が多く、私の郷里の長野市松代町でも公演がありました。
松代町は長野市の南端にある真田十万石の城下町です。私の出身校、松代中学校での音楽教室では、この学校の出身者ということで、体育館でのコンサートの中で私のヴァイオリン独奏もきいていただきました。北信の演奏旅行では松代荘という国民宿舎によく泊まりました。当時は古い建物で地元の家族連れや、おじいさん、おばあさん達が温泉に入るため訪れていました。今はきれいに建て直され、温泉も人気で、予約を取るのが難しいほど賑わっているようです。
ある時そこで長野市の小、中学校の先生方と楽団員の懇親会が開かれました。先生方が私たちのために県歌「信濃の国」を合唱されました。私も楽員に一緒に歌うように言われて先生方と歌い始めました。「信濃の国」は、長野県の美しい山々や川の景色、木曽などの名所、長野出身の偉人などを讃える歌詞で、長野県人なら誰でも知っているという歌です。歌は6番までありますが、私は2番まで歌うのがやっとでついてゆけず、恥ずかしい思いをしました。先生方は美しい合唱をきかせて下さいました。今でもその歌声が耳に残っています。
オーケストラのコンサートはそれぞれの学校の体育館などで行われました。子供達は床に座ってきき、私たちは舞台ではなく、平土間で演奏することが多かったです。
コンサートはスッペの「軽騎兵序曲」や、ロッシーニの「ウィリアムテル序曲」などの華やかでダイナミックな曲で始めることが多く、子供達がオーケストラの壮大な音に、ハッと音楽に引き込まれるのが感じられました。それは嬉しいことでした。
私達はいつも心をこめて演奏しておりました。自分たちの学校で、間近でオーケストラの音をきけたことは、子供達にとってとても良い体験だったのではないかと思います。
ある時は、長野県の北端、新潟県との県境にある秋山郷という高地にある学校にも行きました。マイクロバスで長い山道を登り、ようやく着いた小さな学校。私たち楽員より少ない人数の子供達は、目を輝かせてオーケストラの演奏をきいていました。そして「とっても楽しかった」と話してくれました。
このようなたくさんの学校公演の経験は、生徒さんや先生方とのふれ合いを通して、私たちにとって音楽の持つ力を実感させられた、貴重な体験となりました。そして楽団としての音楽的な成長と経済的な安定を築く上で、大きな力となったのではないかと思います。
また子供達には、オーケストラの演奏を通して音楽の素晴らしさを知ってもらえたのではないでしょうか。なつかしい様々な思い出と共に、そのように感じております。
ヴァイオリン
神野優子