運営委員会から経営運営委員会への移行

運営委員会から経営運営委員会への移行
~課題克服のための独自性ある運営へと進化~

 創立当初より新星日響には《楽員による自主運営》が基盤にあった。自主運営とはすべての運営に楽員自らが責任を持ち方針を決定することである。 弦、木管、金管打楽器、各セクションから選出された代表が、月に1回程度開催させる運営委員会に出席しその決定に参画した。
事務局からは、年に1回の楽団総会の投票で選ばれた《楽団長》が事務局長とともに(後に事務局次長も加わる)運営委員長として委員会に出席する形であった。 因みに楽団長には事務局、演奏現場と両方に亘り運営を司る責務を持つ。

経営的立場の人材が運営委員会に参加

 楽団の発展とともに運営に経営手腕を求められるようになり、1997年に理事、評議員に現役の会社経営者や経験者等を運営委員会に迎え入れ、経営運営委員会と改組した。
 通常はオーケストラの経営責任は理事会が負うものであるが、財政基盤の弱い新星日響では1981年の財団法人化後も基本的に理事会は最高決定機関ではあったが、実質は楽員と事務局員から成る楽団員の意思による決定が続いてきた。
経営運営委員会へ移行する手順として、理事会で新しく経営者理事を選出、評議員会の承認を経て、理事会からの代表として経営運営委員を送り出す形にした。
評議員会からも同様の手法により合わせて全体で7人程の経営面でのスペシャリストの役員が誕生する。
 しかしその新たな理事や評議員たちは、現役として企業・団体で経営や経営スキルを発揮する面々であったがため、通常月に1~2回開かれる経営運営委員会に全員が出席する事が難しく、暫くはその中の3~4人が代表者として参加、 後年は正式に代表理事として1名を送り出し、他メンバーにフィードバックをする方式を採っていった。 経営運営委員会では、この代表理事からは経営的判断のアドバイスを受け、他の新メンバー達には支援推進委員として寄付を中心に経済基盤強化に協力していただいた。
 これはアメリカのオーケストラでは普通に取られている体制で経営責任はもちろん理事会にある。日本でも組織体は同じだが多くは形ばかりのことが多く、そうした中で新星日響では実質的経営責任は楽団員が負いながらも、 理事・評議員に主体的に個々の事例についても経営に参加してもらったことでは、自主運営のオーケストラとして日本初の試みである。事実として寄付金の拡大でも経営能力向上でも格別に大きな成果を上げた。

大きく成長した楽団の意識変化と経済的な希求と

 「スポンサーが無い」=自主運営でもあるが、新星日響の場合、楽員が自らの音楽づくりに責任を持つオーケストラにするという大きな意思で設立した。 そのため彼らは運営にも参加する権利と義務があり、特に創立メンバーには「新星日響は、どこかの経営者に雇用されたオーケストラではない」という矜恃があった。
 しかし楽団が大きくなり仕事や新しい楽員が増えてくるに連れ、経済的な心配から離れ演奏に専念したいという楽員も多くなってくる。新星日響はマスメディア、自治体、企業などのスポンサーのない楽団であり、 その運営はビジネスと呼べない自転車操業であった。それでも給与を出来高払いから基本給と歩合、最終的には楽員・事務局員あわせて100人近くの固定給を出せるまでに発展した。
 ただその成長の過程で楽団員の意識も変化し「自らが作るオーケストラ」という考え方がだんだんと薄れてきたようにも思える。そして初期メンバーが希求した《自主運営》が、 自分たちに都合の良いルールを作ってしまう《団内民主主義》ではないかとの批判がその後に加入した楽団員の中から出てくるようにもなった。
 新星日響は経営者・資本家はおらず労使対立のようなことはなかったが、それでも楽員と事務局の関係の難しさは他のオーケストラと同様に永遠の課題であった。

理事、評議員も加わりさらにお互いの理解が深まる

 楽員と事務局員が、運営委員会やその後の経営運営委員会のテーブルでお互いの意見を出し合うことで理解が進み、対立、要求実現型の団体には無い、相互に「協力」「融和」「共感」的ともいえる運営が実現した。
 これは、楽員の考え方を音楽業界にのみ留めるのではなく社会の一員としての意識を高めることへと変えていった。事務局員にとっても演奏家である楽員をより深く理解出来、理事・評議員にはオーケストラに対する《理解と責任》が生まれた。
 それはある意味当時のオーケストラ運営にとって、将来を見据えた先駆的な会議体だったのではなかったか。更に言えば、創立時の自主運営の理想が約30年を経て、外部の血を採り入れることが新たな自主運営への変化につながっていったのではないだろうか。
 理事・評議員に楽団員と一緒に運営に参加してもらうという背景には、楽員の中からも「音楽家だけでやっていくのは無理がある。もっと経営のプロを入れていかなくてはうまくいかない!」という声が特に創立メンバー以後の楽員の中から出てくるようになったからである。
 この声に反比例するように創立の理想や理念への意識が薄くなったことは事実であったが、それは時代の趨勢だけではなく明らかにそのこと以上に経営の強化を切実に感じていたからである。
 創立メンバー自身の運営への関心が薄くなりつつあったかもしれない。いずれにしても楽団の収入を増やす必要に迫られ、音楽家にとって演奏をしながら楽団運営の規則を改定し、事務を行い、 チケットや定期会員の拡販をしたりボランティアや支持者に訴えたりすることは簡単なことではなかった。
 経営運営委員会への移行に至るきっかけは、当時文化庁からの在外研修事業に演奏家だけではなく事務局からも海外のオーケストラ運営を学ぶことができるようになり、榑松楽団長の推薦によって家安事務局次長が寄付獲得で世界的に知られるアメリカのオーケストラ、 中でもシカゴ交響楽団の実態をつぶさに学び、考え方や手法を新星日響の運営に生かそうとしたことにある。

'95「音楽現代」3月号より 自主運営を越えて
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回

経営運営委員会での学びと成果

 「いつまでも決断しないで、1週間も2週間も放置しない」「報告と検討事項を分ける」という初歩的なことから、マーケティングなどビジネス界の常識を学ぶことになった。
 裏付けがない目標を立て、「頑張ります」で済ますことでは決して実現せず、そのためのスキームの作り方とプロセスの検証こそが仕事だということなど実に多くのことを実践的に学んだ。
 新星日響のような自主運営の芸術団体でよく聞かれるのは敏腕経営者待望論だ。誰かそういう人に運営を託せれば改善されるだろうと。しかし経営運営委員が勧めたのはそういう人材をリクルートするのではなく、 「100点を取るリーダーを探すよりも今いる事務局員の能力を上げて平均して60点が取れるようにする」ことだった。長い目でみればこの方が自主運営団体にば向いていた。
 実際に楽員、事務局の委員の中にどこまで経営的マインドが浸透したかその実績は証明しようがないが、少なくてもファンドレージングプロジェクトでは、 経営者役員達の広い付き合いから寄付の可能性のある方をリストアップして個々にどのようなアプローチが有効か検討してトライ、フォローをすることで着実に成果を上げてきた。これは家安がシカゴ交響楽団事務局でつぶさに見てきたことと同じであった。
 進行状況を報告しフィードバックを受けてまた動く、経営運営委員自身も寄付の可能性のある人をコンサートに誘って終演後寄付のアプローチをした。それまでは少額の善意の寄付を広く集めることで良しとしていたが、寄付額にも差をつけて先ずは10万円、 続いて30万円、50万円と階段をつけて寄付へのインセンティブを刺激し拡大していった。こういう動きが楽団員に知られてくると楽員、事務局員たちからも紹介があるようになり、 それを意気に感じたそれまでの理事・評議員がさらにその気になってくれるというサイクルが回りだすようになった。ファンドレージングの成功はまさにこういう好循環にある。この手法はアメリカでのビジネス経験のある経営運営委員が中心に楽団員達と一緒に行ったことだ。
 当時はまだ珍しかった資金集めの方法としてオークションも開催した。委員の関係で高級品の提供や、オーケストラを指揮する権利など様々に知恵を絞って銀座4丁目の高級宝飾店を無料で提供してもらい、 アイテムはユナイテッド航空のシカゴ往復航空券にシカゴ日航ホテルをセットにしたもの、理事長・黒柳徹子さんの衣装(あの派手な)、サントリーホールでのリハーサル時間を一部提供してオーケストラを指揮してCDに録音までしてもらえる権利などの高額なものから、 そば打ち名人楽員による出張シェフなど知恵と工夫を凝らした。これらは寄付されたものばかりでオークションで落札価格を競り上げながら、楽員ボランティアによる演奏付きパーティー形式で資金を集めた。
 オーケストラの持つ華やかなイメージと人と人との出会いを楽しんでもらいながらのファンドレージングイベントは新星日響への親近感を深めた。これらのことは経営運営委員を中心に楽団員が協力して一緒に和気藹々と行ったことだ。

銀座・田崎真珠店ジュエリータワーで

自由闊達にして愉快なる理想のオーケストラ

 現在(2022年)社会では物の決め方において、強いリーダーの下でトップダウン方式が望まれる一方、またもう一方で社員関係者などのステークホルダーを巻き込んで個人の主体性が発揮されるような民主的合意形成も同じくらい望まれるようになった。
 社会のコンセンサスの採り方が包括的になりつつある今日、新星日響の採ってきた、楽員、事務局、理事、評議員を広く巻き込んでの運営はこれからの時代の組織運営の在り方として先駆的な提言であったのではないか。
 理事、評議員がオーケストラの運営に参画しても楽団員による自主運営が損なわれるわけではないだろう。ましてや彼等は音楽芸術を愛し音楽の社会的存在意義に共感しているのだから。
 ソニーの前進、東京通信工業の井深大氏が1946年に掲げた社是に、「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」という有名なことばがある。
 それと同じようなことが、新星日響という自主運営という生き方を積極的に標榜して誕生し発展してきたオーケストラにおいてもあったと思う。
 そこに外から新たに知恵と経験のある人材に参画してもらうことで、オーケストラ発展のステージに変化が起きつつある実感があった。