定期演奏会をサントリーへ、そして東京芸術劇場への進出

サントリーホールでの定期演奏会移転
東京芸術劇場で新規開催

1989年度より
定期演奏会を
サントリーホールに
移転及び
1991年度より
東京芸術劇場に
新規開催

 新星日響の第1回定期演奏会は1969年10月2日に地下鉄丸ノ内線後楽園駅近くの旧文京公会堂で開催される。当時の在京オーケストラの定期演奏会場は東京文化会館の他は日比谷公会堂、渋谷公会堂など多目的ホールも活用していた。
 1974年度より新星日響の定期演奏会の主たる会場を文京公会堂のほか、他楽団同様に東京文化会館としたが、楽団経営上依頼公演の状況を見極めながら会場を押さえたため、年間2回、3回、4回、7回、8回、9回と不定期的な定期演奏会開催であった。
 そのような状況の中、1980年5月に文化庁から「国の支援は次年度より公益法人で、定期演奏会を年間9回以上行う団体に限る」と発令される。そこで楽団と合唱団等支援者による大運動を行い、1981年4月に財団法人化を達成。定期は年9回となり文字通り定期演奏会となり以降1989年5月まで東京文化会館で開催することになった。
 しかし、1989年6月の新星日響創立20周年記念定期を東京文化会館で行えるよう、前年度に申請し、担当職員に数度にわたり依頼したが結果は次年度6月の会場は不採択であった。当時の定期使用団体は年間10回以上公演する団体には総じて許可されるが、新星日響は「定期使用団体に準ずる団体」だったため、他楽団やオペラ公演、海外招聘団体との競合により大変残念であったが採択されなかったのである。
 そこで、サントリーホールに次年度の状況を打診したところ、当の6月の日程は空いていただけでなく、年間定期公演の可能性も高い状況であった。実は1年以上前からサントリーホールの団体利用そして集客力の状況について正確なデータを継続的に入手、数年後に日本フィルが参入し金曜、土曜の2回定期を始めることも勿論、把握していた新星日響は、創立20周年を機に定期演奏会の会場をどの楽団よりも早くサントリーホールで行うことを決断する。
 1989年6月よりサントリーホールへ会場を移し、日本の楽団で初めてサントリーホールで定期演奏会を開催することとなった。この定期会場の移転は集客状況が好調だった上に定期会員の継続割合も高く、新たな聴衆拡大にもつながる。この後日本フィルをはじめ他の楽団も順次、東京文化会館やオーチャードホールからサントリーホールに定期会場を移転させた。
 一方、地元である池袋に1990年秋にオープンした東京芸術劇場に於いて1991年4月より新星日響は年9回のサンフォニック定期コンサートを開始する。以前より池袋駅前の広大な敷地に東京都がコンサート専用の大ホールの建設が計画されていることは把握しており、定期演奏会、ポップスコンサート等を行う予定であった。
 それを見込み、1981年より春休み親子コンサートを東武東上線沿線の和光市、川越市、坂戸市、東松山市に加えて千葉県船橋市のホールで東武東上線グループの大きな支援を受けながら継続してきたのも池袋の劇場への聴衆を意識しての活動に他ならなかった。
 また、楽団として地元の池袋西ロータリークラブの会員となり、新星日響の法人会員、個人会員として多くの企業、個人による楽団支援を拡大することができた。加えて楽団事務所のある豊島区池袋で定期演奏会やミニコンサートを開くことは、板橋区、練馬区、文京区の方々、企業の方々にも日常的に触れ合える大きなアプローチとなる。
 池袋(東京芸術劇場)については、他の在京楽団にとって関心の薄い時代でオーケストラ連盟の月例会で次年度より開催する旨を話しても「えっ.池袋で? どうぞ.どうぞ・・・」という反応であった。
 東京芸術劇場にとっては初めての定期使用団体だったがためコンサートホール及びリハーサル室も優先的に抑えることが出来、当初は新星日響のフランチャイズのような状況であり、また同劇場は池袋西口より直近であった為、集客状況にとっても極めて良好だった。