八代秀蔵氏 理事長就任
1997年1月、八代秀蔵氏が新鮮日本交響楽団第2代理事長に就任した。一般社団法人板橋産業連合会会長の八代氏は、板橋区で樹脂ベアリングのパイオニアとして開発・販売をおこなうトックベアリング株式会社の会長だったが、当時新星日響楽団長の榑松三郎とロータリークラブの集まりで交流を持ったことですでに1996年6月に楽団の理事を務めていた。その理事として最初の理事会で、「予算の段階から赤字で組む予算書は見た事が無い」と発言し、新星日響の経営改革への意欲を見せていたが、榑松の強い要請を受けて初代理事長飯澤匡氏が逝去した1994年10月以来空位であった理事長職を引き受ける。理事長の責務を強く感じた氏は、就任後すぐに私財を投じて多額の金額を楽団に寄附し、経営面の立て直しのための固い決意と、新星日響への深い愛情を示した。
下記は新星日響・賛助会季刊誌「粲(きらめき)Spring.1997」にインタビュー形式で掲載された、八代氏の理事長就任時の抱負である。
八代秀蔵氏財団法人新星日本交響楽団第2代理事長に就任
日本初・世界初の「物造り」に挑戦し続けて
今オーケストラの発展に尽くす!
理事長八代秀蔵
インタビュアー:楽団長榑松三郎
新星日響・賛助会季刊誌 粲(きらめき)Spring.1997 より
このほど新星日本交響楽団の新理事長に八代秀蔵氏が就任した。八代氏は敗戦直後の日本で、初めてのメトロノーム生産を手がけた魁(さきがけ)エンジニア。すでにこの時からオーケストラと何かのご縁があったのかも。
その後持ち前の進取の精神で世界初のプラスチック・ベアリングを開発、この分野で屈指の成功を収めた。「物造り」の「神さま」八代秀蔵のオーケストラ造りに発揮する手腕が注目される。
槫松:子供のころの音楽との出会いについて。
八代:私は幸せな男だと思っています。というのは子供のころから機械物が好きで、中学生の頃は電気的ないろんなものに興味をもって、モーターを作って電気機関車を作ったり、トランスなどを作って、学校の勉強なんかは二の次でした。
この興味というか道楽を学校の工学部で勉強し、学んだことを土台に卒業してから実地に生かして自分の職業とすることができ、工場まで持つことができました。これは親に感謝するのと、社会に感謝する両方ですが、職業として社会に貢献するひとつのテーマとして、
そういうことから「物造り」は私の人生の責務だし一番大切なことだと思っています。
私の生家は山梨県の旧家で、国の重要文化財になるような古い家です。しかし、古い家に住んでいて、両親も音楽とは全く関係がなく侍系の出でしたが、広く芸術に対して関心を持っていて、勿論長唄とか小唄であるとか歌舞伎など日本のものも好きで、
洋と和の両方を趣味としていました。私の兄弟7人は皆音楽好きで、蓄音機でいろんなSPレコードを聴いて小学時代を送りました。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの西洋音楽に接する機会を持ち、
とても面白く楽しんで聴いた記憶があります。父が早くに亡くなりまして、一番上の兄は家を守らなければならず、チェロで上野を出てから、山梨の田舎の中学で音楽の先生をしておりました。仲間と一緒に甲府で弦楽四重奏をやっており、
よくチャイコフスキーを聴かされましたことが、音楽に親しんだ一番の原因だと思います。
オーケストラとの出会いは大学受験、今のN響、当時は黒柳徹子さんのお父さまの新響時代に、横浜で小船幸次郎さんの指揮で「アルルの女」組曲と「新世界」を聴きました。生のオーケストラに接し、震えるような感激を覚えました。
それからずっとオーケストラには興味を持ち続けていました。
私は音楽を職業としなかったけれど、本業としてのエンジニアリングと趣味としての音楽を並行して、私という人間の心が育っていきました。
槫松:そういう縁や土壌が昔からあって、音楽とエンジニアリングの歯車がかみ合ってメトロノームの製造をされたのですか。
八代:昭和17年に学校を卒業し、戦時中は甲府で海軍に納める測定器を従兄弟と一緒に作っていました。
昭和20年に戦争が終わって東京に来て、何か平和な仕事がしたいとかんがえました。小学生のころ家にヤマハのピアノがあって、それを悪戯しているうちに、ドイツのメッテル社製のメトロノームという三角のものがピアノの上に置いてあることに気づきました。
当時はドイツ、フランス、スイス製のものしかなく、そのメカニズムに非常に興味を持ったことが記憶にあって、「よし、国内初のメトロノームを是非生産しよう」と板橋に11人の工員さんを集めて、昭和23年に自分で設計して作りました。蓋にYMS(八代製作所)と刻印して、
日本楽器の銀座支店に納めました。当時の製品は1台しか残っていませんが、4年間で2万8000台ぐらい製造し、学校や音楽好きな家庭に浸透しました。
槫松:人のまねをしないオリジナルな日本音楽史上初のメトロノームですね。
八代:その後、総合ベアリングの仕事に転じて、価値分析という考え方に興味を持って、試行錯誤を繰り返しながら、昭和36年に世界初の独自の製品として、プラスチックを利用したベアリングを開発しました。
日本全国、世界30ヵ国に輸出しており、政治経済の変化に伴って現在は、月産1000万個を生産しています。11人で始めたメトロノームの町工場も、今は故郷の山梨と板橋で300人の従業員を抱える会社になりました。経営状態も良好で「研究開発型企業」として通産省、
科学技術庁から着目されています。
槫松:たゆまぬ研究と努力の結果ですね。次に新星日響との出会いそして、理事長としての抱負をお聞かせください。
八代:ロータリークラブを通して槫松さんと知り合ったのがきっかけです。その後、邦楽同好会でも一緒になりました。池袋に新星日響が本拠を置くことになって、豊島区の田村さんと板橋の私が音楽に趣味があったことでしょう。
仕事は仕事として一生懸命やりながら、私は子供のころからの趣味の音楽を大切にしていきたいと思いました。
理事長という立場から新星日響に望むことは、新星日響が健全に育成され、楽団自体の技術の向上をはかり、同時に安定した経営基盤を確認して、ますますいいオーケストラに発展し、日本文化の発展に貢献することです。池袋、赤坂の地域社会の多くの人々と喜びを分かち合い、
日本国内の人々に新星日本交響楽団を知っていただきたいし、一人でも多くの方々にオーケストラを聴いていただきたいです。それが楽団の社会的な責務だし、外部から賛助してくださる方々に対する恩返しだと考えます。オーケストラは難しい仕事ですが、
音楽を愛する人間として、又、友人として声援を送りたい。楽団全体が発展して生み出すものは高度な芸術性を持ったもので、多くの人に喜びを与えることができるものなのです。音楽を通じて心と心の触れ合いを楽しみながら深めていきたいと思い、かつ願っております。
槫松:スケジュールに追われて、演奏しているのではなく、一つ一つのコンサートの中に初めてオーケストラを聴くお客様もいらっしゃるという、大切な出会いを創っている仕事であることを、今の理事長のお話から改めて自覚いたしました。
八代秀蔵(やつしろひでぞう)
大正9年生まれ。 神奈川大学工業経営科卒業
昭和21年10月1日 八代製作所創立。事業主。メトロノーム製造
26年4月20日 吉川産業(株)専務取締役
42年5月1日 トックベアリング(株)代表取締役社長
52年~53年度 東京板橋ロータリークラブ会長
56年5月21日 (社)板橋産業連合会 会長。現在に至る
61年10月20日(社)東京工業団体連合会 会長。
平成2年10月 板橋演奏家協会 名誉会長
2年11月 (社)板橋国際交流協会 理事
2年11月3日 勲五等瑞宝章
3年7月 (財)新星日本交響楽団 評議員会
4年4月20日 紺綬褒章
8年6月 (財)新星日本交響楽団 理事
9年1月 トックベアリング(株) 取締役会長
9年1月17日 (財)新星日本交響楽団 理事長就任
しかし、八代氏の新星日本交響楽団での理事長職は長くは続かなかった。就任から4ヶ月後の5月23日、病気療養中だった八代の容態が急激に悪化し、帰らぬ人となってしまう。新星日響への思い入れが深く、経済界とのパイプの繋がりを持ち、短い在任期間の中で多額の献金を集めた八代の逝去は、楽団にとって再び理事長不在の事態に陥るだけではない、大きな痛手となった。
八代秀蔵様との出会い
槫松三郎
八代秀蔵様にお会いしたのは、私が池袋のロータリークラブの会員になって1年程経ってからでした。ロータリークラブは今から156年前にシカゴで生まれ、世界では200以上の国、地域に35万以上のクラブがあり、120万人以上の会員がいます。ロータリークラブでは地域で活躍するリーダー達が集い、親睦を深める中から、よりよい明日の地域社会、さらにはより良い世界を創るために活動を続けております。
豊島区内には池袋駅を中心に4つのロータリークラブがあり、私が入会したのは新星日響の事務所があるエリアの池袋西ロータリークラブで、会員は40名程で
東武百貨店も会員でした。
八代様は板橋ロータリークラブでしたが、相互に親睦関係があり、私は直ぐに親しくなり賛助会にも入会していただき、サンフォニック定期にもよくご夫妻で来場していただきました。音楽や文化をとても愛する方でした。
板橋区のトックベアリング社を訪問した際、帰りがけに社員の女性の方が「社長は、社員の仕事場近くの部屋に、社員が仕事後にピアノが弾けるようにとピアノを買って下さったのです。」と話し、また、ある夕方の遅い時間に、ピアノの音色がすると思いドア越しに見ると「なんと社長が上手に弾いていたんですよ」と喜んで話してくれました。
そして、91年に新星日響の評議員に、96年1月には理事に就任して下さり、理事会では優しい言葉とともに経営について厳しいご意見もいただきました。その後、私をトックベアリングにお呼びになり、面前で小切手にサインをしし、多額のお金を寄付してくださいました。それは当時の新星日響にとってとても有難い支援となり、そして翌97年1月に(財)新星日本交響楽団第2代理事長に就任していただきました。しかし、八代様は前年より病気療養されており、5月23日に容態が悪化し亡くなられました。ご冥福をお祈りするとともに、とても残念な思いでした。
八代様の奥様八重子様には6月のサンフォニック定期のG.P前に楽団長がお悔やみを申し上げ、楽団からお礼として深い感謝の気持ちを込めて「金の鈴」をお贈りしました。